青焼きの技術から小型複写機へ 感光紙から普通紙へと

紙から紙に複写するコピー機がたどった道(前編)

日本におけるコピー機の歴史を振り返るとき、外せない社名があります。リコーは感光紙で創業し、紙から紙へ複写する機械、つまりコピー機でオフィスの効率化に寄与してきました。今回は「複写機」と呼ばれていたコピー機がオフィスに普及するまでの背景をたどります。

[2016年11月15日公開]

「青焼きの技術から小型複写機へ 感光紙から普通紙へと」記事本文

「青写真を描く」という表現があります。青写真とは、元の書類と感光紙を重ねて露光し、化学反応で元原稿を複写したものです。「青焼き」や「ブループリント」とも呼ばれています。設計図で多く用いられていたため、「青写真」というと構想や未来図を意味する言葉になっています。

この「青写真」による複写に欠かせないのが感光紙(印画紙)でした。当初は青地に白線だったところ、日本の理化学研究所が反転して白地に青い線とできる陽画感光紙を発明しました。白地となることで書き込みができるようになり、利便性が高まりました。これを販売するために1936年に創業したのが理研感光紙株式会社です。後に理研光学工業へと社名変更し、1963年に再び社名変更して現在の社名となるリコーになります。

1950年代にはオフィス向け卓上型の複写機が登場します。複写の対象が図面だけではなく書類にも広がり、複写機はオフィスで使われる事務機器へと変わっていきました。

まず1951年にコピア(現在のキヤノンファインテック)が青写真用の複写機を発売し、追って1955年に現在のリコーが露光と現像を一体化した複写機「リコピー101」を発売開始しました。なお、このリコピー101は一般社団法人日本機械学会が認定する機械遺産として認定されています。小型卓上複写機は手書きによる写し作業を減らし、オフィスに転記ミス削減や事務効率化をもたらしました。

(写真1)リコーの複写機第一号「リコピー101」。日本機械学会認定の機械遺産だ。複写機の登場は、オフィスに事務効率化をもたらした

この時代の複写機は青焼きの技術をベースとしており、感光紙が不可欠でした。感光紙は薬品で加工した特別な紙であり、普通紙よりも高価です。また不意に感光しないように、光に当てずに保護して取り扱う必要もありました。

1970年代には普通紙複写機が登場します。紙に何も仕掛けがない普通紙が使えることは複写の敷居をぐんと下げました。リコーからも1972年に普通紙複写機「PPC900」が発売されました。

リコー 画像システム開発本部 副本部長の轡田正郷理事は「PPC900はB4サイズまで印刷できました。大型で230kgもあったため、納品時には4~6人で運ぶ必要がありました。新人はよく駆り出されました」と振り返ります。同社画像システム開発本部 開発支援センター センター長 斉藤穣氏は「(新製品納品で)PPC900の引き上げも大変でしたよ。トナーを抜いたはずなのに服にインクがついてしまったりね」と言います。

(左)株式会社リコー テクノロジーセンター 画像システム開発本部 副本部長 轡田 正郷理事、(右)株式会社リコー テクノロジーセンター 画像システム開発本部 開発支援センター センター長 斉藤 穣氏 *内容は取材当時のもの(写真:加山恵美)

なおリコーではコピー機の元祖にあたるジアゾ複写機は2007年に製造終了したものの、消耗品となるジアゾ感光紙や現像液などの販売はしばらく続けていました。ついに販売終了となったのは2016年3月、半世紀以上も続く長い製品でした。(中編に続く)

執筆:加山恵美(フリーランスライター)
編集・文責:株式会社インプレス

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